こんにちは。Ricaです。前回の続きです。
初めて教会の門を叩いたのは2011年の初夏ごろだったと記憶しています。
家の近くにキリスト教の教会が古くからあることは知っていました。ただ、そこがプロテスタントかカトリックか、どんな宗派なのかも知らないままに、とにかくそこに行ってみようと思って、行ってみました。初めて行ったときは平日で、日曜の礼拝の案内や教会の案内掲示を見て、日曜に出直すことにしました。
そして日曜日。教会の方はみなさん温かく迎えてくださいました。その日はちょうど特別伝道礼拝の日で、来られていた牧師先生に祈っていただいた記憶もあります。
その教会には懺悔室みたいなお部屋はありませんでした(プロテスタントでした)。思っていた教会のイメージとは少し違いましたが、とてもアットホームな感じでした。
ただ、そこからすんなり、というわけにはいきませんでした。というのも、私は他宗教(特に神道)や「ニューエイジ」と呼ばれる思想に染まっていた人間で、救いを求める気持ちはあったものの、最初は受け入れられず、私の脳内では、キリスト教にほかの宗教や思想も入り混じったような、かなり混乱していた時期もありました。教会に行かなくなり、もと来た道を引き返すように偶像礼拝に戻って行ったときもありました。でも、教会で知り合ったクリスチャン友人たちのつながりだけは残っていました。
感謝だったことは、このような迷いに迷ってる状態の私を、それでもいいと言ってクリスチャンの青年の集いなどに誘ってもらえたことでした。
2013年の秋、再び教会に通い始めていた私は、ある礼拝のとき不思議な体験をしました。
その日は聖餐式も執り行われたのですが、私は聖餐式というのを見るのは初めてでした。
洗礼を受けていませんでしたから聖餐はもちろん受けられないのですが、そこで語られたある御言葉になぜか涙が止まらなくなりました。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
有名な、良く知られていた御言葉で、私も初めて聞いたわけではなかったのですが、なぜかその日その時、まるでイエス様がその場にいて、私に語りかけて下さったように、私の心に響いたのでした。
それまで聖書の中に書かれていたことを、何か遠い国の話のように思っていたのですが、今を生きている私にまで及んでいると感じさせられた瞬間でした。ああ、イエス様は本当におられて、聖書の神様は本当に生きておられるんだなあと思いました。
私の人生のターニングポイントとなった出来事だったと思います。
その後もほんとに色々ありましたが、イエス様を信じ、洗礼を受けることを決めました。
今さまざまなほかの宗教を信じておられる方もいらっしゃると思います。また求道中の方、無宗教の方もおられると思います。以前の私のようにニューエイジや占いなどをされている方もおられるかもしれません。
私自身、色々なところを渡り歩いてきました。
でも、本当の神様は唯一の、(三位一体の)神おひとりだということを私は知りました。
そして、私たち人間を救うことができる方は、神であられ、人となられた、救い主イエス・キリストであることを知りました。
過去に具体的に罪を犯してしまった人も、そうでなくまあ普通に生きてきたよという方もいらっしゃるかもしれません。しかし、すべての人は罪人であると聖書は書いています。
その、人の罪をすべて負って、十字架の上で、罪人の受けるべきさばきを、身代わりに受けて下さった方が、イエス・キリストです。
イエス様を信じるなら、救われます。そして、「永遠のいのち」という素晴らしい贈り物が神様から与えられます。
あなたは信じるか信じないか、選ぶことができます。
一人でも多くの方が救い主イエスを信じて、本当の救いを得ることができますように。
お読みいただき有り難うございました。