こんばんは。いつもお読みいただいてありがとうございます。
今日は教会でささやかな賛美集会が持たれました。感謝でした。
今日は、「愛する」ということについて考えてみたいと思いました。
愛という言葉は世の中で多く使われますが、愛するということは、どう「する」ことなのでしょうか。
聖書を開くと、愛について書かれた箇所が出てきます。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」
(第一コリント13:4-7)
私がまだクリスチャンでなかった時、家族の結婚式でこのみことばを知って感動した記憶があります。改めてここを読むと、まあ本当に自分には、愛する愛というものがないものだと思わされます。と同時に、キリストという方が、ほんとに、愛なる方だなあというのがよくわかります。
私はキリストを信じる者のはしくれとして、耳かき一杯分でもいいから、愛を実践したいという思いがある、けれどもその耳かき一杯分さえ、まっとうにはできない自分がいます。すぐに、不寛容になったり、高ぶったり、人をねたんだり、ほこったり、利己的になったりするのです。これはどうしたものか・・・私は随分と悩んでいた時期があります。自分自身に望みはなく、イエス様に救っていただく必要があることを教えられている思いになります。
また、私はもともと神経過敏というか、よく言えば感受性が豊か、と言えるのかもしれませんが、感じやすく、すぐに傷ついてしまう、そういう意味でもすごく弱い人間です。人間関係を築くのにとても臆病になってしまいがちで、気が付くと人が怖くなっていました。もったいないのですが、人と仲良くなるのにも、とても時間がかかってしまうことが多いです。
愛の実践は私にとっては非常に困難なチャレンジなのですが、失敗しながらでもいいから、イエス様に学びたいと思います。
イエス様のなさってきたことを見る時、本当に、神様であられるにもかかわらず、へりくだって、仕えるお姿として見ることができました。私は本当に高慢な人間だと反省しますが、この謙遜から学びたいと思いました。